表現としての写真

 図書館でアサヒカメラをパラパラとめくって、あまり面白くないなぁと思った。

 凄く傲慢な感想だけど、こんな写真なら俺でも撮れると思った。勿論、実際撮ったら突っ込みどころ満載の画像になるだろう。まずは露出とか手ぶれとかの基本的なところでダメ出しを出され、雑誌に掲載されるなんて事は絶対にないだろう。それは判っている。

 それでも、まぁこの程度なら自分でも撮れると思った。これは確信犯的な思い上がり。言い換えれば、こんな絵が撮りたいというものが見当たらなかった。これくらいなら、今自分が撮っている絵の方が、自分自身を楽しませる事ができる。

 プロカメラマンが依頼を受けて撮るなら、どんな安い依頼でも失敗は許されない。式場カメラマンなら式場カメラマンなりのノウハウを持っている。第一線の広告写真の分野なら、それこそ選ばれるだけのスキルと表現力、更にネームバリューも必要になってくる。

 ただそういう職業的な写真から離れて、プロカメラマンが撮る表現としての写真は面白くなくなっている。だから未だに森山大道荒木経惟篠山紀信なんだろう。

 そんな事を思いながら、図書館の書棚を眺めていたら、「現代写真家の仕事術」というのがあったので、借りてきた。返却日は四月五日。

 別に現代写真家になる気はないし、表現としての写真を極めようという気はない。せっかくカメラをぶら下げて歩き回っているのだから、つまらない画像を撮るよりは、少しでも未来の自分を楽しませる事のできる絵を撮りたい。それくらいの理由。

 昔は自分の判らない意味というものがあって、いつかはその意味が判るようになりたいと思い、判らないものも判ったふりをしていたが、この年齢になれば、判らないものは判らないで流しておけばいい。理解できないものを理解しようとするくらいなら、好き嫌いだけで判断した方がいい。ただ、その裏側にはちょこっと興味がある。それは写真の好き嫌いとはまた別の興味。