散歩休止中

 PCに夢中になれば、散歩をしなくなり、散歩をしなくなるとカメラを使わなくなる。カメラに飽きたから、PCに夢中になったとも言える。

 うまくバランスがとれるといいのだけど、なかなか難しい。ただPCに嵌り過ぎるというのが、不健康だというのは明らか。

 散歩を再開しよう。

その後のPCライフ

 E420の本体電源部の不安とデジカメで撮った画像を見るディスプレイが欲しいという理由でW530の中古を購入。

 i5搭載のT480より、i7搭載キャリブレーション付きのW530の方が有用性が高いという判断。HDDをSSDに換装しメモリーを増量すれば、現行の第一線のPCと比較しても遜色ないし、キーボードはUSキーボードに交換すればよいし、場合によっては液晶を交換してもよいと考えていた。

 通販で購入するので現物は見れない。どんなのが来るのかは賭けだったが、結果的は外れではなかった。5~6年前のハイエンドのノートPCだから性能的には、何の問題もない。法人使用ならライフタイムは終わっているが、個人用としてはあと2~3年は十分だろう。

 E420はバックアップ用に回す事になる。

 

HDD交換のE420のその後

 本体電源が少し危なっかしいが、それ以外は絶好調。

 自分で修理したという愛着があるし、少なくとも、HDD交換時点でのシステムバックアップは万全という安心感はある。

 VirtualBoxを使った仮想環境の構築に嵌っているので、現状の主記憶4GBでは少し足りない時もあるが、使えていないわけではない。

 というわけで、PC買い替えは一時保留にする。

 ただこれから2年も3年もは使えるとは思っていない。

 100台限定のT480のパフォーマンスモデルはまだ残っているようだ。

 価格だけチェックしておく。

 クーポン適用後114,091。

 メモリを16GBに増設すると+31320。メモリが高い。

 PCIe-NVMe M.2対応の1GBのSSD、+118000で本体より高い。

 待てば下がるか、それとも上がるか?

 仮想通貨のバブルが崩壊したら、というか既に崩壊が始まっているような気もするが、顕在化してニュースになり始めたら、メモリやらSSDやらは、一気に下がりそうな気がする。前のバブルの時の感覚からすれば、あと半年か一年くらいか?

 頑張れ! E420。

写真が趣味ではない理由

 プロ/アマチュアを問わず、写真家を名乗るのなら、最も重要なのはその場所に居るかどうかだ。

 戦場カメラマンは戦場にいてこそカメラマンなんだし、式場カメラマンは式場にいてこそカメラマンだ。戦場カメラマンが結婚式場に居る時はカメラマンを名乗るべきではないし、式場カメラマンはそもそも戦場に行くべきではない。

 プロは現場にいなければ仕事にならないのだけど、アマチュアは撮影で稼いでいるわけではないから、必ずしも「そこ」に居る必要はない。カメラや機材を沢山持っているだけならただの収集家だし、子供の運動会や発表会にカメラをぶらさげていくだけではカメラマンは名乗れないだろう。

 ネイチャーフォトに魅せられて、脱サラそて釧路平原にペンションを営み、客の来ないシーズンに日常的に写真を撮っているなら立派なカメラマンだと思う。林家ペーパー夫妻は立派なカメラマンだと思う。熱心なインスタグラマーはカメラマンだと思う。

 野鳥愛好家とカメラ愛好家とカメラマンの区別は難しい。ただこの三者の中で一番幸せなのは野鳥愛好家だと思う。

 野鳥写真と同じように、散歩写真というジャンルもある。昔ならスナップ写真、今ならストリートフォトはこの分野に入ると思う。フォトコンの上位に散歩写真が入選する事も珍しくない。写真家としてフォトコン上位に入選できるようなモティーフを探して街中を彷徨い歩くよりは、散歩を純粋に楽しんで、その記念に撮影してくるというスタンスの方が楽しいと思う。つまり、散歩が主でカメラは散歩を楽しむための道具に過ぎない。

 

趣味の両立

 趣味としてのコンピュータの再開。もうひとつの趣味は散歩。カメラは散歩の為の道具という位置づけ。今は乗っていないが、自転車も散歩の延長。クルマも今は買い物くらいにしか使っていないが、散歩の道具のようなものだ。

 つまり趣味はコンピュータと散歩のふたつ。前にコンピュータを再開しようとした時は、コンピュータの方に嵌り過ぎて、散歩がおろそかになった。散歩に出なくなったのは、他にも要因があったのだけど、それも一因である事は間違いない。

 結局、コンピュータの方は煮詰まり過ぎて、放り出し、散歩にも出なくなり共倒れという悲惨な結果になっている。

 散歩はアウトドアだし、コンピュータはインドア。バランスを取りながら両立させていくべきだろう。散歩もコンピュータも所詮は暇潰しの趣味。欲張らない程度にほどほどがいい。

表現としての写真

 図書館でアサヒカメラをパラパラとめくって、あまり面白くないなぁと思った。

 凄く傲慢な感想だけど、こんな写真なら俺でも撮れると思った。勿論、実際撮ったら突っ込みどころ満載の画像になるだろう。まずは露出とか手ぶれとかの基本的なところでダメ出しを出され、雑誌に掲載されるなんて事は絶対にないだろう。それは判っている。

 それでも、まぁこの程度なら自分でも撮れると思った。これは確信犯的な思い上がり。言い換えれば、こんな絵が撮りたいというものが見当たらなかった。これくらいなら、今自分が撮っている絵の方が、自分自身を楽しませる事ができる。

 プロカメラマンが依頼を受けて撮るなら、どんな安い依頼でも失敗は許されない。式場カメラマンなら式場カメラマンなりのノウハウを持っている。第一線の広告写真の分野なら、それこそ選ばれるだけのスキルと表現力、更にネームバリューも必要になってくる。

 ただそういう職業的な写真から離れて、プロカメラマンが撮る表現としての写真は面白くなくなっている。だから未だに森山大道荒木経惟篠山紀信なんだろう。

 そんな事を思いながら、図書館の書棚を眺めていたら、「現代写真家の仕事術」というのがあったので、借りてきた。返却日は四月五日。

 別に現代写真家になる気はないし、表現としての写真を極めようという気はない。せっかくカメラをぶら下げて歩き回っているのだから、つまらない画像を撮るよりは、少しでも未来の自分を楽しませる事のできる絵を撮りたい。それくらいの理由。

 昔は自分の判らない意味というものがあって、いつかはその意味が判るようになりたいと思い、判らないものも判ったふりをしていたが、この年齢になれば、判らないものは判らないで流しておけばいい。理解できないものを理解しようとするくらいなら、好き嫌いだけで判断した方がいい。ただ、その裏側にはちょこっと興味がある。それは写真の好き嫌いとはまた別の興味。